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結城里音のBLOG

PixivにてSSを執筆している作家のブログになります。

多くの情報があふれる中で、これという答えはない。

 普段。何気なく生活を送っていても、日々。新たな事柄に触れて、日進月歩で新たな情報が生まれる中で、新しいことを追いかけることも重要かもしれません。しかし、その中には、いずれこの結果にたどり着くことがあるかもしれません。そこで……

「どれが正解。ということはない。」

 そんな話。をお送りします。

 

 

追いかけても、次から次へと新たなものが生まれ、自分も変わっていくもの…

 日々、いろんな事柄が生まれては消えたり、残ったりしていくものの、いずれ人々の記憶からは消え去られてしまいます。それでも、どこかのだれかの‘記憶’にとどめてもらえれば、この執筆動画もブログ執筆も、誰かのためになっているんだろうな。と思えることができます。
 日々、新たなものが生まれ、目まぐるしく変わっていく世の中で、その変わっていく事柄を追いかけるのも、時には大変になるもの。数年前に流行ったものも、今はもう過去のこと。中には数か月流行った程度で、なくなってしまったものすらあります。
 そんな物や事柄に関しては‘レトロ’や‘中古’として出回ることになり、私のように‘レトロ’が好きな人の元へと回り巡っていくことになります。はたまた、そこにたどり着けないものは、どこかの倉庫で眠るか、リサイクルの道が待っています。
 単純な商品に関しても、このようなことが言えますが、これは私生活でも十分に当てはまります。


youtubeの執筆動画や、ハウツーものは特に……

 決してyoutubeの執筆動画やハウツーものを‘否定’するわけでもなく、それでいて‘肯定’するわけでもありません。私は、どちらかというと‘中立’の立場でいたいと考えるので……
 そんな中立の視点から見ると、いろいろなものが見えてきます。一つのハウツーの成功体験は、とてもいいものです。それを動画にして、公開するのもユーザーに任されています。
 こうしたからできたんだ。と、やり方を動画としてyoutubeに上げることになりますが、それはいいことでもあります。しかし、私の視点から見ると、それはあくまでもその事柄に対しての‘一方向からの答え’にしかすぎません。
 それは、‘一人の答えは、その他大勢の答えには、ならない’からです。確かに、その人にとっては、それがしっくり着ているのですし、新たに始める人ならそれがいいかもしれません。しかし、それはある一定の結果しか生みません。それが……

 ‘一過性の答え’

 ということになってしまいます。
 一過性としてスタートダッシュには成功するでしょう。でも、そうして獲得したユーザーはほぼ‘同じもの’を求めるので、常に同じものを‘企画する’必要にかられます。そして、それが自分に合っていない場合は、途端に尻つぼみになってしまうのです。
 この一過性がまずいということではなく、一過性をそれだけに終わらせないことが重要となってきます。まして、一つの答えを続けていき、ほかのユーザーが真似をしたとすれば、youtubeで表示されるのは、コピーコンテンツだらけになってしまいます。
 あの有名な、フェルミ研究所も、今では真似をされて多くの動画の中に埋もれてしまっています。よりキャッチ―な人目を引くサムネイルにおされて、ベルマーク通知がなされていない場合は、その動画の海・ネットの海に埋もれていくことになります。
 そして、まねをされた動画は、新たな動画を生み、二番煎じ三番煎じと、より薄くペラッペラの内容になってしまいかねませんし、そうなる未来をはらんでいます。しかも、そうして獲得したユーザーは、コンテンツを変えた瞬間から離れていきます。何せ、そのチャンネルに求めているものが違いますから……

 私のように独特なもの、ほかにはないもの。そして常に変わっていくものとして、youtube動画を始めていくと、一過性のユーザーではない人がじわりじわりと増えていくことになります。一過性で伸びるのは決して悪いことではありません。それも重要なファクターのひとつではあります。
 しかし、一過性で出会ったユーザーは、離れるのも早いユーザーとなってしまうのです。そして、そこからじわりじわり自分の味を出していったとしても、違う未来が待っています。
 「あれっ?このチャンネルこんなだった?」
 となってしまう可能性すらはらんでいます。それは視聴者の行動へとつながり、一人。また一人と離れていってしまう流れを生むのです。これが自然の摂理として息づいています。
 ならば、一過性で獲得するのは良しとしたとしても、その一過性の‘ジャンル’はこだわった方がいいのが見えてきます。


ふたつの事柄を並行的に……

 人気がある動画や内容というのはある共通点があります。人気実況者がしたから、今これが主流だから…それも正解のひとつです。それに追従して、プレイ動画を上げるのも、正解のひとつです。
 しかし、それは真似っこに近くなってしまいます。まぁ、それでもいいという人も、ユーザーも当然いますが……
 人とというのは、1+1を4でも6にでもできる可能性をはらんでいるのです。なら、まねっこも重要ですが、自分の‘味’を出してもいいのです。たとえ、同じコンテンツだとしても、自分の好きを追求してその動画に寄せていくというのも、方法のひとつです。そして、新たなるジャンルを構築していくことで、固定ユーザーが付くことになります。
 ただし、これにはあることが必要になってくるのです。それが……

 ‘心と体の成長。そして時間’

 この‘3つ’のファクターが重要になってきます。持久力をもって続けていく体力と、マイナスをプラスに転化できる心。そしてそれを許容できるだけの時間と器が……
 と、こう並べてしまうと、一朝一夕に行くものではないのが、明らかになってしまいます。しかし、これはなんにでも当てはまることで、誰にでも用意されているものです。

 この‘思いを抱いて’未来を描くことと、思いを‘描かずに’未来を作っていくこととでは、雲泥の差が待ち受けています。新たなことを吸収して、新たな未来を作るのか、これがいいんだという思いのまま、安定を求めてしまうのか。それだけでも変わっていくものです。
 思いが人を形を成し、未来を作っていくのなら、今日より明日。というふうに未来をどうありたいかを思いながら、失敗しつつもトライしていくことが重要なのかもしれません。


 こちらの記事は下のURLから執筆動画として公開しています。そこでは、私の執筆中の‘ありのまま’の動画となっており、執筆環境や時間を共有できます(`・ω・´)ゞ

https://youtu.be/KyYBI2YQQQk


 もし良ければ、そちらでpixivに公開しているものの執筆動画も上げているので、そちらもよろしくお願いします。(`・ω・´)ゞ

結城里音 - YouTube

誰かができるのなら、自分もできる…けど…

 普段、何気なく見ている動画も、よくよく考えると共通したことが見えてくる。それは、ある意味で世の中の心理に至る道?

「どう考えて、どう行動するかを知ると、ある程度はできるようになる。」

そんな話。

 


ある人の行動そのものには‘思い’が隠れている。

 人が行動するときの、意識無意識にかかわらず、その陰には思いが宿っています。それを原動力として、人は行動するようになります。無意識といっても、意識した段階で、無意識ではなくなってしまいますが。それはともかく、いろいろなことが無意識下で選択されています。
 その陰には、しっかりと思いを遂げるために、相手を意図した方向に誘導するためにといった思いが込められています。特に、スーパーや商材などはまさにそれですね。内容こそ、そこまで気にすることのないものでも、ある特定の単語をつけることで、一気に魅力が増します。例えば……

 ‘限定商品’‘ここだけの話…’‘元祖’

 などなど、上げていったらキリがありません。
 そのどれもが集客に使われたり、作家や販売店の店主の意向を伝えるために、思いが購入者の目にとまり購入へとつながるプロセスが、紡がれるのです。それが当たりまえで、慣れっこになってしまいます。
 本来なら、ここである程度の人は思考を止めてしまいます。盲目的に慣れっこになることが定石だった時、動かなくなるまでは気が付きません。そこに何があって、正常に動いているうちは、当たり前になり、いつしか使えなくなるということが自然と目に見えています。
 それは、言霊をはらみ、相手の心を突き動かすこともあります。


言霊があると言われるゆえん。

 前項で少し上げた‘言霊’についてですが、言葉に感情が乗り、さらには受け取った人の感情を揺れ動かすことができる。これが言霊ですね。意識せずとも普通にあります。ただ、これ。シュレディンガーの猫と同じです。
 シュレディンガーの猫を概要だけ話すと、箱の中に入れた猫を、箱を閉じた状態で観察すると、箱の中の猫は…

 ‘死んでいる’
 ‘生きている’

 という二つのパターンが見て取れるということになります。しかし、箱を開けて確認するまでは、どちらの結果も存在しているということになります。
 そして、言霊はこの‘猫’の方になります。私は箱を開けて言霊について知りました。そうすることでその言霊という存在は認知されて、私たちに影響を与えているということを、教えてくれます。
 しかし、言霊を知らない人にとっては、単純な慣れっこで、視認はしているものの、確認することはなく、そのままにしてしまいます。まして、人とは忘れやすい生き物。そのため、一定の期間が過ぎるとその記憶は消失してしまいます。そのことで‘物忘れ’や‘忘れ物’という現象が発生するのです。

 しかし、ものの見方を変えると、その事柄は一気に変化を始めます。‘視認’する方向に選択肢を変えたことで、どう思っていたのかも伝わってくることがあります。それは、物語として、はたまたアニメとして…キャラクターの思いに心を寄せると、よりその考えが明確化していきます。
 ただ、ここで少しばかり変化が訪れます。それが……

 ‘同じ選択肢を経ても、全く同じ。にはならない’

 ということです。確実論ではないにしろ、近い位置までには到達できることでしょう。しかし、人間が介在するうえで‘完璧’は不可能に近いです。なら、完璧にこだわり過ぎずに、程よいところを目指す方針に変える努力をしましょう。


なんでも‘完璧’は傲慢。

 人というのは、どうしても‘完璧’を求めてしまうもの、それを‘仕方ない’と受け入れるか‘いや、普通でもいいよ’ととらえるのかで、世界が変わって見えてきます。当然、TOPを目指した方がいいものもあります。それが、普段の生活に関係していることならまだしも、そこまで高クオリティーのを‘求めない’のであれば、TOPでなくてもいいのです。
 特に、ハウツーなどでやり方をピックアップしている動画はたくさんあります。それは、環境に応じて全く違う効果を導きだしたりすることもあります。全く同じ環境で、同じ状況下で行ったとしても、同じ結果を導くことはありません。それが当たりまえで普通なのですから。

 育ってきた環境が違うのだから、求めることも得るものもみな違います。多種多様なことが認められ始めている中で、いろいろな事柄のハウツーが動画として更新されています。
 しかし、そんな中にも、どこかちらっと違うものが存在します。それは、いい面かもしれませんし、悪い面かもしれません。それを取捨選択するのもあなた自身なのですから。

 ここでは、このようなためになるかもしれない話を、ただレトロな旧マックのようなカラーリングの元で行う執筆動画です。
 ぬるく長い目で見ていただくと幸いです。

 こちらの記事は、以下のURLで執筆動画が公開されます。

 https://youtu.be/gnvhs3UQIEA

良薬口に苦しとは言うけれど、その影には親の想いが…

 良薬口に苦しとはいうけれど、そのことわざに両親の想いが含まれているのは、皆さん知っての通り。しかし、このことわざの想いは、さらに派生を続けて薬のことだけに限らないことがわかってきます。そこで今回は……


「薬も苦いけれど、生活でも苦いものはある。」


 そんな話。

 


もともとは、両親の想いが‘ことわざ’として伝わったもの。

 最近になってからというもの、子供でも飲めるような苦くはない薬も登場してきました。同じ薬効成分を使い、苦いと感じる味覚を極力なくした薬ができたことで、子供たちでも容易に飲めるようになりました。
 それまでは、苦虫をつぶしたような表情をしながら飲んだものです。または、オブラートと呼ばれる、胃酸で溶ける飴状のシートにくるんでから飲むということをしていました。今では、オブラートではなく、飲みやすいゼリーも登場してきています。
 日々、日進月歩で新しく飲みやすくするためのものが、どんどん生まれてきています。そのため、この言葉‘良薬口に苦し’という言葉も、過去のことわざになりつつあります。

 その言葉に込められた思いは、いつしか違う言葉に置き換わり、使われなくなってきています。ただ、この言葉は、別の意味にも応用が可能となってきています。それは、体を治癒させるために使われる‘薬’というよりも、人同士の付き合いを改善するための‘薬’としての意味合いが、私の中で感じ取れています。


誰しもが通過する‘新入社員’。この時が、一番。処方されているような状況。

 今年はいろいろな状況が複雑に絡み合い、いろいろとややこしいことになっています。後半から入社した人であれば、今このことを感じている人がいるかもしれません。
 右も左もわからない人は、どうしても失敗を重ねてしまうものです。そうして、失敗を重ねてしまうと、仕事そのものが嫌になってしまいます。当事者はこう考えるようになってしまいます。

 ‘こんなつらい仕事…やってられるか’

 と、こう考えるようになります。そう考えるようになると、一気に仕事が嫌になり離職の道を選ぶことになります。
 人には得手不得手が存在し、どうしても上達できない場合があり、職業選択の面からしても、離職の道を選ぶのもの納得できます。しかし、その選択をする前に、このことを考えてください。

 ‘もっと効率的な考え方はないんだろうか’

 そう考えていくことで、自分には足りないものが見えてきます。自分に対して何が足りていないのかを見つけれるようになってくると、自然と仕事もうまくいくようになるのです。
 また、その自分に足りないものが、この瞬間得られないものだとしても、機を熟すことで自然と得られるものがあります。しかし、この当時は夢中になってしまい冷静さを欠いたことで‘盲目’になってしまっているため、その改善点が見えなくなります。


最初こそ辛いものだとしても、その実。気が熟せば…

 いくらつらい仕事だとしても時間と心の成長で、それまで辛かったことでも平気になってしまうのです。
 幼いころに両親から言われた‘良薬口に苦し’のあの思いは、仕事に就き大人になっていくうちに、いつしか忘れることでしょう。しかし、心のどこかにとどめておくことで、普段の生活にも生かせることはたくさんあります。
 最初は辛く、大変なことだとしても、効率化や時間をかけて心を成長させていくことで、自然とできるようになっていきます。
 これが日常で、数多くの人が乗り越えてきた事柄でもあります。その人にできるのなら、自分たちにもできるはずなのですから、やらない手はありませんね。

 そう思って考えると、すべての事柄のどこかには‘ヒント’が存在しているように思えてしまうのでした。

タイトルにこだわるのもいいけれど、こだわり過ぎて難解に…

 ショートストーリー作家に限らず、小説家にも共通することがあり。その中には、とても重要なことがあります。それは、タイトルも当てはまります。そのタイトルにこだわるあまりに、読者すら難解になってしまうことも多々あります。そこで、今回は…

「程よく、キャッチーなタイトルが、難しい。」


 そんな話です。
 最後までお付き合い、よろしくお願いします。

 


書いたからには、やっぱり読んでもらいたいもの。

 告知になってしまうのですが、私は、アズールレーンなどのショートストーリーを、pixivに発表して行っています。二次創作にあたるその小説は、多くの目にとまって、見てもらいたいものです。
 たとえ、リクエストから依頼されたものだとしても、やっぱり。読んでもらってこその、作品でもあります。その中でも、タイトルは作品の表札にもあたります。その表札に、こだわった名前を付けてもいいですが、これには一長一短があります。

 例えば、人気キャラクターのプリンツ・オイゲンのショートストーリーだとしても、私の中ではモデルとなるキャラの名前を入れるようにしています。例えば…
 「オイゲンの○○の○○」
 など、オイゲンというキャラ名と、作品中で何をするのか。その思いを象徴する単語をタイトルに入れます。
 これが、駆逐艦などの、小型艦になれば、赤ちゃん言葉を使ったりもします。それは、やっぱりこのことが関係してきます。
 「タイトルは顔であり、キャッチーであること。」
 このことに限ります。

 折角の作品ですから、見てもらうことを前提としたとしても、あまり難解な単語を盛り込んで、「ん?」と疑問を生んでしまっては、支離滅裂になってしまいます。なら、よりキャッチーでクスッと笑ってしまうようで、手に取りやすいようなタイトルの方が、その作品にあっていると思っています。
 まぁ。触れ合える作家を目指している私ならではのことかもしれませんし、ほかの作家の人なら、全く作り方の根本から違う。そんなことも多々あります。


安っぽいチープなタイトルと、そうでないタイトルのせめぎ合い。

 官能小説の単語というのは、実に多彩で。花にたとえたものから、動画にするのもはばかられてしまう単語など、多岐にわたります。それを、タイトルに盛り込んでもいいのですが、実に厄介です。というのも、私の小説にも‘読者’がいるからです。
 難解でより深い官能小説のようなタイトルにすることも可能です。なら、なぜそうしないのかというのが、ここに隠れています。より官能小説的なタイトルにすることも可能です。花弁などの単語を使ったとしても、内容と関係なかったり、内容を象徴していたとしても、その単語そのものを知らなければ意味がありません。
 となると、難解な単語を使い官能小説らしいタイトルにしたとしても、内容が伝わらないのなら、タイトルの体を成しているのか危ういところになります。

 作品の顔であり、家の表札にもあたるタイトルは、ショートストーリーを書くうえでも重要となってきます。そんなタイトルは、その内容が垣間見えたうえで、ストレート過ぎないタイトルをつけたほうが、いいのかもしれません。
 そんな私も、日々。暗中模索で手探り状態でタイトルを考えている状態なのです。


クスッと笑えるくらいが、一番いいのかもしれない。

 二次創作のショートストーリーとして、読んでもらった時にタイトルを見て「クスッ」と笑ってもらっているのが、質問箱に寄せられる「w」の単語で伝わってきます。この単純な一文字でも、私はうれしく、楽しい気持ちになります。
 執筆するためのテンションの維持にもつながりますし、何しろ。双方向で楽しめている気持ちになります。私が書いたもので、読者も執筆作家も、その楽しい時間を共有できるのが、一番いいと思っています。
 そんな私ですが、少し前にも上げた通りに、日々いろんなことを考えながら執筆し、そのうえでタイトルもつけています。悶々と考えることも当然あります。なら、タイトルでも中身でも「クスッ」と笑ってくれる方が、うれしいに決まっています。

 そんな作品を、今後も作っていきたいと思う今日この頃でした。
 最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 こちらの記事は、執筆動画として、ゆっくり魔理沙が読んでくれます。以下のURLからどうぞ。
https://youtu.be/WOnCVjLQegU

継続は力なり。でも、一番難しい。でもなんで?

 継続は力なりとは言うけれど…多くの書籍や啓蒙サイト。自己啓発サイトによく書かれていますが…。この単純な6文字の中には、なかなかサイトにあったりなかったりするものが含まれています。それは、意外と応用が利き、身近にあることです。


「‘楽しい’がすべてを変える」


 この記事では、以下のことを説明します。

・継続は難しいという、‘本当の理由’がわかります。
・そして、その継続を‘永続’にするためのきっかけがわかります。

最後まで、よろしくお願いします。

 

 

辛いものは、誰でもがつらいもの。

 いくら、継続は力なりと言われても、それがつらいことであればやる気すら訪れません。まして、つらいということが変わっていればいるほどに、よりやりたくないと考えるのが、自然の摂理です。誰しもが嫌ですからね。
 自分にとって、辛く感じるものは、自分に対して向いていないもの。やらない方がいい。そう考えて、嫌煙するようになります。それが普通で当たり前の世の中です。
 しかし、そんな人が嫌うことを、率先してやる人がいるのはなぜでしょう。それが今回の特集になります。それは、ある瞬間に突然訪れます。


誰がやっても、‘辛いこと’なら、やらない方がいいの?

 辛いのがわかっているのなら、その事柄はやる人がいなくなるはずです。でも、そうはいきません。辛い事柄ということは、その事柄をする際には険しい道が待っていることになります。
 ひととは、本来辛いと分かっている場合には、やりたがらないもの。身の危険すらある場合は、特にこの警戒能力が発動して用心して近寄らないようにします。これは、すべてに言えることで、生まれながらにして備わっている基本的な能力のひとつです。
 しかし、そんな中でも辛いと思っていることを、さも普通にやっている人がいます。それはなぜなのでしょう。それでは…実に単純な言葉が待っています。

 「それは、楽しいからです」

 それだけ?と思う人もいるでしょう。それだけなのです。こんな言葉もあります。病は気からと。気の持ちよう次第ですべてが変わってくるということで、病気になるんだ。と思っていると、本当に病気になってしまうように。‘辛いこと’と思っていればその事柄が、いくら楽しいことでも‘辛く’なってしまうのです。
 これは、ほかの事柄にも言えることで、それまで辛いと思っていた事柄を、ぼそっと‘楽しい’と口にしてみるのです。たとえ、苦虫をつぶしたような顔をしていてもです。そうすることで、‘ある変化’が訪れます。

 ‘気の持ちよう’が変わるのです。

 これが変わることで、それまでのマイナス思考がプラスへと転嫁されて、辛かったはずの事柄が、一気に楽しくなって継続していけるようになるのです。


どこかのだれかが…クスッと笑ってくれるだけで、一気に楽になる場合も…

 それでは最後にまとめていきます。
 継続は力なりと、小学校や高校で習いますが、それが大切でかけがえのないことも理解しているはずなのに、どうして続かないのかについて説明しました。それは‘楽しくない’からです。
 人というのは、ゲームなどの自分が楽しいことなら、何時間もできるものです。しかし、こと勉強となると‘嫌なこと’‘辛いこと’になるため、勉強があっという間に嫌になってしまうため、継続していけなくなるのです。
 しかし、このことは‘学校’では教えてくれません。なぜかというと‘社会生活’で学ぶことになるからです。社会人として生活していくことによる。‘後天的に獲得するもの’だからです。
 そのため、先生や学校の担任は、その答えを知っていたとしても、助言こそすれ、直接的な答えを言ってくれない場合もあります。経験したからこそ、得られるもので、身に染みてわかることになります。

 この執筆動画や記事に巡り合えた貴方は、この考えを基にしていくことや、心の端っこに止めておくことで、普段の生活が少しだけ楽になり、継続が‘永続’になっていき、輝かしい未来が待っていることを祈っています。

 最後まで見て・読んでいただき、ありがとうございました。(`・ω・´)ゞ

 こちらの執筆動画は、以下のURLで視聴可能です。
https://youtu.be/ZGnlXeEEHDI

複雑な心があってこそ、貴方というキャラが生まれる。

 これだけ多くの性格があり、いろんな人種があるこの地球。それだけ多い世界観が存在し、その人にしか描けない未来があるのなら、キャラ一人ひとりに未来が用意されていてもおかしくない。そう考えていくと……


「いつしか、よりその相手を知ることにつながる。」


 今日はそんな話。

 


普段の生活で触れ合う相手も、性格がある。

 日々社会生活を続けていくうえで、触れ合う相手にも性格があり、好き嫌いも当然のようにあります。自分が好きなことでも、相手は嫌いだったり、そのことで意見の相違が生まれて、口論につながったりと、千差万別の世の中です。
 たとえ短い時間のふれあいだとしても、その相手の今の性格の片鱗に触れることができます。長く触れ合えば、相手のその過去の片鱗すら見えてくることになります。
 そうして触れ合っていくことで、人同士の生活が維持され、社会生活が保たれることになります。
 なら、その出会いを大切にしたいと思う私は、少ない会話でも、相手のことを深く知ろうとしていきます。


断片に触れ、より相手への‘興味’が生まれる。

 最近の世の中は、だましだまされの事件が増え、社会問題になり始めています。そんな中でも、多くの未来が生まれ新たな価値観や世界観が生まれます。悲しい出来事は人々を突き動かします。
 より良い未来を実現するために行動し、それは、集団の思考となり世界を変える大きな流れになっていきました。
 その未来は、その人にしか紡げない物語であり未来です。心が思い描く最良の未来は、その他の人々のためになる未来を紡ぐこともできます。それは反対に、ほかの人々を苦しめてしまうことも当然あります。

 物事にはいい面と悪い面が表裏一体で共存しています。完璧な平等はあり得ない世の中で、完璧を求めるあくなき欲求を追求するのも、自分なりの世界を紡ぎだすのも、今の生活がすべて足掛かりになっていきます。
 ならば、いまをどう考えるかにかかってきます。今の生活から何を得るのか、そして、それをどう生かすのか、そう考えていくことで未来への足掛かりになっていきます。
 多くの個性と出会い、いろいろな性格の人と出会い、とても楽しい時間が普段の生活では待ち受けています。その中には、だまして利益を得ようとする人も、利益を得ずに他人のために…とそう思う人も、多くの人の想いが錯綜しています。
 それは新たな未来を作り、歴史の記録に残っていくことになります。そして、触れ合っていけば行くほどに、その相手を知ることにつながります。

 心について、今週は取り上げましたが、次週は全く違う展開を企画しています。物語を紡ぐうえで、重要になってくることや、価値観の共有などを執筆動画や記事で取り上げていければと思います。
 そして、心は誰しもが持っているものです。生まれながらに持ち、成長していくうえで、環境に感化されながら、一人のオトナとして経験を積み成長していくことになります。
 このブログや執筆動画に巡り合えて、とてもうれしい限りです。数溢れる動画の中で、この普段話へとたどり着いた人や、ブログを見つけてくれた貴方は、私にとっては貴重な、視聴者です。

 そんな出会いを、言葉での出会いだとしても、大切にしていきたいと思う。今日この頃でした。
 最後まで視聴・読んでいただき。ありがとうございました(`・ω・´)ゞ

こちらの執筆動画は、以下のURLで視聴可能です。よろしくお願いします
(`・ω・´)ゞ

https://youtu.be/f7JYmZgV5hc

心の柔らかさはふとした瞬間に感じるもの…

心の柔らかさは、生まれつきという一面もあります。しかし、それでいて後天的に得られるものもあります。なら、こう考えることができます。

「心の機微に触れるほどに、より柔和になっていく……」

 今日は、そんな話。

 


人はどうしても‘悪い一面’を見てしまう。

 それは人の本能に至る部分なのかもしれません。自分に害を及ぼす人か、そうでない人かを、会話の中から探り出さなければいけません。そのため、必然的に相手の悪い面はどこかと、探してしまうことになります。あらさがしですね。
 それは、自分の好意にプラスαされ、意思に扇動される形で、必然的に相手にレッテルを貼っていくことになります。この人には警戒しないとと。
 そうすることで、心の平安を保つことができているのが人です。それは、心の防衛の一部で、なくてはならないものです。

 しかし、それが強く働きすぎると、より厄介なことになります。それが、味方は自分ばかりで他は敵。と極端にいえば、そうなってしまうのです。こうすることが一番なんだ。と育児にのめりこんでしまうことや、凝り固まった固定概念で育児をしてしまうと、こういった結論にたどり着いてしまうのです。

 防衛することは、とても大切なことですし、だまされないようにするためにも、防衛線を張ることは大切になります。しかし、張り過ぎるというのはマイナスの効果を生み出しかねません。
 それは‘固定概念’です。こうでなければいけないんだと、選択肢を固めてしまうことで、自由を失ってしまうのです。時代の流れで、変革していく世の中に、取り残されてしまう可能性すら生まれます。
 ところが、ある視点を設けることで、このことは、ガラッと変わります。


物事の‘いい面を見る’努力をする。

 これは、一概にできることではありません。かといってやらないと、その視点が生まれません。固定概念を取り払い、新たな視点を取り入れていくことで、より副産物のような価値観が生まれていきます。
 それは、視点を得るまでには気が付けなかったことで、新たな視点を手に入れたその時から、初めて歯車のように動きだします。それまで、凝り固まってしまった歯車が、油を刺したように回り始めるのです。

 人というのは、リスクを避ける努力をするというのが、本能に刻まれています。それが強く働き、言葉の発達とともに、よりそれが表面化しています。警戒しすぎて、固定概念にさいなまれてしまい。変革を恐れてしまうようになるのです。
 今が安定し、不安な要素が全くないのですから、変化が怖くなってきます。そうすると、相手に対してある種の‘レッテル’を貼り、仲間外れにしてしまうという行為に出てしまうのです。

 変化した先にも、悪い面だけではなく、いい面もあるはずなのに、その目を曇らせてしまいます。多くの情報に埋もれて、いい面が隠れてしまうのです。それが、孤独を生むきっかけを導きだしてしまうのです。
 生来、人同士は変わっていて当たりまえなのです。人と人は性格も異なれば容姿も異なります。自分にはなくて、相手にはあり優れているところもたくさんあります。
 なら、そこを‘変わっているから’と抜け物にするのではなく、変わっているからこそ、新たな‘変化’の可能性として、捉えることができれば、儲けものです。

 それは、寄り添うための心の柔らかさにつながり、柔軟性のある性格を作り出す土壌となります。


最後に…ここで上げたものは、あくまで解決の手段のひとつでしかありません。

 寄り添うための方法として、心の機微や柔軟性を身に付けていくことになります。ただ、それには、心の扉を開く必要があります。そこには、当然。だまそうとしてくる人が現れます。
 そして、そういう人はこういいます。‘だまされる方が悪い’のだと。善悪の話に移行してしまうのです。これは、どちらが悪いということはありません。そう、どちらも悪くないのです。
 こういうと、語弊を招きそうですが、だまされる方もだます方も人なら、だます方の人には‘そうなった理由’があるのです。単純に、だまし合いの中で育ってきたから、それしか知らない。という人もいれば、楽をして生きようなんて考えている人も当然います。

 人の数だけ、考え方があり、答えもあります。しかし、これだけは覚えておいてください。そのことで、相手も幸せになりますか?
 それを念頭に置いて考えると、その選択がもたらした結果に目を向けることになるのですから……
 そして、失敗を恐れないで下さい。誰もが間違えるのです。それが人なのですから。

 最後まで読んで、見ていただきありがとうございました(`・ω・´)ゞ


 こちらの記事は、下のyoutubeリンクから、執筆動画として同時公開しています。
https://youtu.be/9EtSXlA7CNs