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結城里音のBLOG

PixivにてSSを執筆している作家のブログになります。

多様性の泉 2020.08.26

 血気多感な思春期を経て、多様性が養われるけれど……

“失った多様性と残った多様性”

 そんな話。

 

 

血気多感なお年頃。

 血気多感なお年頃は、学校に入る前から色々なものに興味を示します。まずは、家庭で。口に入れちゃだめなものをしっかりと教えられ、時に痛い想いをして学び、教訓として自分の心と脳裏に刻むことになります。
 そうして得た知識をもとに、幼稚園へと入ることになります。
 それは、初めて触れる自分以外の友達。長く続けば“腐れ縁”ともいわれるそれは、人によってはその相手とケッコンするまで続きます。幼馴染と結婚なんてなかなか無いと思われがちですが、意外と選択肢のひとつとしては実にまっとうな選択肢です。
 何しろ、酸いも甘いも知った仲なのですから、これほど幼馴染の相手が結婚相手に向いているものもありません。新たに知り合うプロセスも大事ですが、幼馴染や同級生なら、その必要もないですからね。

 そうして出会った、腐れ縁となる親友と生活していくうえで、それぞれの個性が出てくるのも、この周辺です。初めて出会う同年代の異性。または、親以外のオトナの女性や男性。
 そうした大人は、生徒を導くために生徒の年代では得られない知識を豊富に得ています。そのため、憧れを抱くには十分な魅力を放つことになります。そのため、先生と結婚した。なんて話が飛び交います。しかし、それには落とし穴も…

 なぜなら、自分より博識で賢いイメージとして、交際を開始して結婚したのだとすれば、その知識が大人としての普通の知識量だった場合。幻滅してしまうことが想像できます。
 博識で理知的で賢いという三拍子そろった憧れの先生も、その実“人”なので、その憧れを抱く位置には、努力をすれば到達することができます。望むと望まざるとにかかわらず、同じ年代になるには時間を経過するだけで、あの時に自分が憧れを抱いた先生の年代に、なることができます。

 それは、博識になるのも同様です。恩師と呼ばれる、人生の方向性を決めてくれた人も、その人が大人になっても苦労しないようにと、ある程度の指針を教えてくれることになります。
 それは、担任として…時には親友のような立ち位置から、生徒をサポートし、大人への足掛かりを作っていくことになります。そこでは、多様性を養っていくことになりますが、無限大に広がっていく多様性の宝庫ともいわれる子供時代。

 そんな中で、ついて回るのが“人としての倫理”です。

ついて回る倫理の問題。

“人間生活の秩序。つまり、人が生活をするうえで重要となる筋道”

 倫理について調べると、このような内容が出てきます。
 人として生活していくうえで、必要不可欠になってくる倫理は、最初の悩みどころです。

 個性として芽生え始めた多様性を、人の生活にそぐわない多様性は、なくしていくしかないというのが、通例になります。なぜなら、その多様性をそのまま成長させてしまっては、社会生活が根本から崩れかねない事態が発生するからです。
 しかし、血気多感な年頃では、そんなことは知ったことではありません。なにせ、自分が好きで始めているのですから。しかし、中には人の社会生活を根本的に買えてしまう多様性を生む場合があります。

 それは、好みや好意に裏打ちされた、多様性が生んだ“個性”です。
 一人の人を構成するには、多くの興味と好意が形作ります。両親から教わる、やってはいけないこと、やったら相手がかわいそうに思えてしまうこと。その事柄に対して両親は“やってはいけないこと”として、教えることになります。
 そして、幼稚園や小学校へと進学して、自分以外の価値観に触れると、さらに変革を成して、自分なりの回答を得ることになります。それは、親が教えたものよりも、数歩先を行く場合も当然あります。

 親よりも子供の方が知っていたことなんて、ざらにあります。そんな芽生えた若葉を、剪定するのはたやすいことです。“だめ”といえばいいのですから。
 そのほかにも、経済苦などで叶えれない両親のもとに生まれてしまった場合はその思いをいかに維持するかにかかっています。その思いを長い間熟成することができれば、大人になってから得られる知識は膨大にあります。

 子供の時代に得られる内容は増えてきている昨今ですが、それでも変わらないものはあります。それは……

“大人でなければ経験できないものもある”

 例えば、介護職。これに関しては、学校で率先的に“体験”として行っているところはたくさんあります。しかし、体験と経験では微妙にニュアンスが異なります。体験では決まった時間内で、相手と触れ合いその事柄に対しての“大筋”を理解することになります。
 一方で“経験”となると話は別です。深くその事柄に対して体験を経たことで、体験とは違うものが手に入ります。それがより専門的な知識を“理解”することになるのです。

 大筋を理解したとしても、キッカケにはなります。その職業に対しての知識を経て、足掛かりとなり就職をすることになります。しかし、学生の頃に大筋を理解して就職しても、想像を超えた出来事も容易に訪れてしまいます。
 そのような場合には、どうしてもつらい出来事として記憶されてしまうので、離職の可能性すら出てしまいます。よくこんなセリフがあります。

“憧れて入ったのに、中身は違った”

 憧れの職業で、キラキラ輝いて見えたその職業。その実、そこまで輝いていないのが事実です。何しろ、“見せる(魅せる)”ための体験ですから。

 とまぁ。子供の時には得られない体験が、大人になると経験となり、自分の糧になります。では、なぜ。大人は“ダメ”というのか……

なにも、つぶそうとして失わせるわけじゃない。

 個性を潰してしまいかねない“だめ”という言葉ですが、その実。潰そうとしているわけでもありません。まぁ、中には同じ目標を目指すライバルを蹴散らす意味でつぶそうとする場合もあります。
 それは必要不可欠ですが、私的にはうーんと考えてしまう点でもあります。よく、“切磋琢磨”と呼ばれ美化されることが多い事柄ですが、その実。蹴散らされた方は、その分野から手を引くことになります。

 実質潰れてしまったその才能は、残った方からすれば“その程度”と四文字で片付けられてしまいます。そして残った才覚はTOPを飾り、世に知られることになります。
 では、散った方は?くしくも、せめぎあいの中では淘汰されてしまいますが、生きていく中で、得てきた貴重な知識です。それをまっさらにすることはできませんし、新たに学びなおすとしても、多くの時間を消費することになります。

 何か一つの分野のトップを目指すのであれば、越えなくてはいけないものになりますが、そこまでを望まない人が多くいます。何せ、人はそこまで完璧じゃないのですから。
 ロボでもない限り、一つの事柄を失敗なくこなせる人なんて、よほどです。失敗する生き物の人が、完璧を目指してトップを目指すことになるのですから、非常に厄介です。

 ここで“厄介”という言葉を使ったのには理由があり。ある種の中毒性をはらんでいるというのもあります。その分野のトップに達するために、突出した知識を経ることになり、その分野の専門家としてバラエティー番組にも引っ張りだこになります。
 しかし、一つの分野に突出するということは、一つの事柄に関しては豊富な知識を経ますが、ほかの分野からの応用が利かなくなります。その人にとっての答えがそれひとつしかなくなってしまうのです。

 ひとつの分野に突出するのは、重要でそれを求める人も多くいます。しかし、完璧を求める人にとって、一つの答えでしかないソレは、その事柄が間違っていたり、その事柄とは違った答えが出た場合。その相手を責める行為に発展します。

“なんだよ。ちがうじゃないか”
“専門家なんだろ?”

 完璧を求める貪欲なため、これ!という答えが得られなければ満足できなくなってしまうのです。そうすると、満足できる答えを得るため、ほぼ無限に近い答えを探し続けることになってしまうのです。
 探求心がそれに拍車をかけ、ブレーキとなる理性のタガが外れてしまっては、ややこしいことに発展します。

 そんな多様性を必要としない分野であれば、それもいいでしょう。しかし、昨今の情勢をみれば、そんな蹴散らす時代は終わりを迎え始めているのかもしれません。

多様性の失敗と教訓。そこから変わってきたこと

 では、そんな突出した分野を目指し、その道の専門家になる人は、多様性に溢れる中で、どうしてその分野に至ったのか。
 それは、単純な興味。そこから得た知識が、誰かの役に立つ。最初こそそんな純粋な想い。しかしそれがトップを目指し始めたとたん世界が変わります。それでも、その分野のトップになるために、学び続けることが必要になるかもしれません。トップの専門家になりたいのであれば……

そう。
“トップになりたいのなら”ね。

 これほど情報が溢れかえる中、その分野に突出した知識の必然性が薄れてきています。それこそ、その分野に就職するのであれば必要になるかもしれませんが、そうでない限りは必要ではなくなります。
 なにせ、溢れかえる情報の海から、検索して内容を精査し、自分の知識として構築すればいいのですから、そこまで専門的な知識は必要とはしません。しかし、より詳しく知りたい場合は、どうしても専門分野の知識を調べる必要がありますが。
 それには、読解力だけではなく、その分野に関してのある程度の知識が必要になってきます。それでもその分野のトップを目指すわけではないので、さほどの情報量は必要とはしません。

 インターネットで何でも手に入る時代。その上、編集プログラムすら普通に無料配信していたりと、手に入らないものはなくなりつつあります。そんな中で、多様性とは……

失ったはずの多様性を認める時代に…

 基本的な概念は変わらないとしても、恋愛の価値観も異なってきている昨今。変わり始めるのにはいいきっかけになっているのも事実です。
 ただ、一転突破型の専門家であればあるほど、そう素直に変化できるものではありません。それが大学の学長レベルはもちろんのこと、教授レベルでもなおのことです。

 もとより、人のキャパシティーというのは限られています。そのため、覚えられることにも限界があります。ある人にとっては当たり前のことでも、別の人には当たり前ではないことがザラにあります。
 そのために意見の祖語が生まれ不要な争いの火種になってしまいます。言い争いから始まり、大きくなれば戦争にすらなりかねない内容でもあります。
 そのため、相手のことを受け入れることができない人ほど、この傾向が強くけんかっ早いことが多くあります。

 では、そういう人やそうでない人は、どうすればいいのでしょうか。それは、実に単純で、許容する器を持てばいいのです。相手のことを知る努力をし、どんなことを考えるのか、相手ならどう考えるのかと思いを巡らせれば、自然と答えに近づいていくことができます。
 相手を知るための恋愛のように、相手のことを理解し学ぶことで、多様性を後から獲得することになります。学ぶことに対して“遅い”ということはありません。それは、若いころのような柔軟性は少ないでしょうが、それでも大人ならではの感性で物事を吸収することができます。

 何事もキッカケが大事です。そしてたどり着きたい場所を目指しゆっくりと一歩ずつ進んでみてはいかがでしょうか。