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結城里音のBLOG

PixivにてSSを執筆している作家のブログになります。

本能と理性 2020.08.25

 男女問わずにあるもの。そして、恋愛の選択の基準になるもの。それが……

“本能と理性”

 そんな話。

 

 

地球上の動物すべてが持っているもの

 久しぶりに書いた普段話。いろいろ執筆作業が立て込み、お休みをしていた普段話は、再スタート。
 その一つ目は、この話。本能と理性の話です。

 理性についての書籍は多く書かれていますが、専門書籍になればなるほど、難解で難しい単語を使って執筆されています。その方が、端的に短く説明できますし、より専門書感が出ます。単純に“専門書”感を出したいから使っている…(人もいる?w)だけではなく、より長文で詳細に語るより、端的に二文字で語れる内容にした方が、膨大な中身を集約できるのです。
 そのため、端的に集約した結果。大衆向けとはかけ離れた“専門書”のような文面になってしまいます。

 それをいざ、手にとっても“?”となってしまう人も当然います。端的に集約した言葉で濃密に語られた内容は、しっかりと理解するにはそれなりの労力が必要になります。そのため、物語や小説を読むようにはいかないのです。
 そんな専門書を読むのも楽しい時間ですが……でもやっぱり、口語(かみ砕いた文字)で書かれた分かりやすいものが、手に取りやすいですし読みやすくなっていきます。

 そんな中で、本能とは……

 地球上に存在する動物(人にも)存在するのが、“本能”です。それはいろいろな行動原理に裏打ちされ、細分化していけばもう。大木の根のように細かく分かれてしまいますが、集約するとその多くが人も持っているものです。

・生きていくため
・種の存続

 この二つに分けられます。そのどれもが、野生動物から人間にも備わっていることで、より原始的な行動原理を裏打ちさせるものとなっています。

 よく、こんな疑問を抱き、小学生むけの参考書にも乗っている質問があります。

“水族館のサメは、どうしてすぐ横の魚を食べないの?”

 理知的で物覚えのいいひとであれば、その理由を鼻高々に言うと思います。大人にとってはそれが当たり前すぎるのですから。というのも、この知識を経て鼻高々になる理由は、子供から聞かれた場合の答えとして覚えておきたいと思ったからにほかなりませんが……

 覚えようとした事柄に、ある種の“タグ”をつけることでその事柄自体を、思い出しやすくします。それは、タンスや本棚に例えられ、“話の引き出しを増やす”ことにもつながりますが、このタグ付けがうまくいくと、記憶の整理も楽にできるようになります。

“質問x答え”

 理知的に考える人は、答えをタグとして使用します。“こういう答え”につながるのはこういう質問があったから。という関連付けが行われ、この質問が来た場合にはこの答えになる。という一連の流れができているので、端的に応えれるようになります。
 それは、大人が得た知識を子供に伝えるときも応用され、教えられた子供はその親を尊敬するようになります。自分を守ってくれてかっこいい憧れの存在へと昇華していくことになります。

 親の背中を見て子は育つとは言いますが、理知的に考えてなんでも応えれる親ほど、子供からすれば憧れに近いものになりますが、その実。子供の方がより大人よりも吸収率が高いというのもあります。
 そのため、親よりも早く事柄を覚えていきます。それは、自分の興味を持った分野ほどより多く覚え、専門性の高い知識まで覚えていくことになります。某番組の“博士ちゃん”がいるのはこれが理由ですね。

 では、この知識を得たいと思った理由は、本能なのでしょうか?

本能だけだと、共存はできない?

 自分の好きなことを見つけ、その事柄に対しての知識を、貪欲に求めていく……あれ?この行動って、生物の本能の根本である“生きること”に対して必要ですか?という疑問にぶち当たります。
 何せ、専門的な知識を得たとしても、その専門性の高いものが“生きること”に必要不可欠であれば、本能に裏打ちされた知識となり、本能に裏打ちされた行動となりますが。その実、子供が興味を持ちそうな内容は、多種多様にあります。

 これが本能を基準とした欲求になっていきます。
 これは、恋愛の根幹を成すもので、異性に対する興味もこれに付随します。自分とは異なる考えを持ち、容姿も釘付けになるほど魅力的なのですから。
 “どうしてこんな風に考えるんだろう?”と最初こそは、疑問から相手を迎え入れることになるでしょう。それを足掛かりにして、相手をほかの人とは違う興味深い人に昇華し、それが異性であれば、恋心に発展していく足掛かりになります。

 同じ事柄を体験できる学生時代。自分とは違う多くの考えが飛び交い、意見交換ができる最良の場所ともいえる学び舎は、心が育つのにはもってこいの環境になります。本能に裏打ちされた知識欲。そして、本能に裏打ちされた異性への興味と恋心。
 これが本能としてひとくくりにできない理由になります。根本的なことろでは、生きるために必要なこととして、覚えていることにはなりますが、突き詰めればそこまで必要ではない内容になってきます。

 そんな欲求は本能を根本とした行動原理になり、社会生活を維持していくことになります。それは生きていくために必要な事柄だけで無く、不必要な事柄まで、知識として蓄えていくことになります。
 多くの欲求に派生した知識や本能は、人を構成していくうえで重要となっていきます。しかし、これほど大量の知識を有するのは“人”だけで、そのほかの野生動物は基本的で最低限度必要な“生きるため”に必要なことしか習得しません。そこで数行前の質問が返ってきます。

“サメはほかの一緒に泳いでいる魚を食べないの?”

 という小学生が求める質問へと戻ってきます。
 サメにとってほかの魚を食べるのは?という。質問に帰ってきます。それは、冷めにとって“生きるため”に重要なことだからです。
 それはほかの肉食系動物にも言えることですが、これはさらに発展した考えが必要になってきます。

“サメはほかの魚を襲わない。では、虎やヒョウは?”

 ここが、厄介なところです。
 厳密にいえば、サメにもあるのでしょうが、そこまで積極的なものでもありません。まぁ、水族館にいる“サメの種類”がそうさせているのでしょうが。サメの世界も虎やヒョウの世界も、良くも悪くも“好戦的”という言葉が付いて回ります。

 この“好戦的”という三文字は、実に厄介な欲求と絡み、本能をより危ういものへと昇華させます。それは“食べるためじゃなくても襲う”ということです。
 たとえ、満腹で食べる必要がなくても、じゃれるように相手を殺めてしまうということです。また、家族という形態を持ったことによって、群れのために食べ物となる動物を多く狩猟する本能がある動物になります。

 群れを成さないサメは、単独で行動するために食事さえ取れれば、ほかの魚を狩猟する必要がありません。サメからすれば労力の無駄といった形に片付けることができます。
 しかし、群れを構成する動物にとっては、群れを維持するために多くの食料を欲するために、狩猟本能が高くなっています。ただ、彼ら自身はこれが本能によるものだと、認識しているとは限りませんが……

 昨今の野生動物が人里へと降りてくる理由は、人間がいるからです。人間の作る果物や食物は自然界にはないもので、腹を満たすには最高の物を作ってくれます。
 そのため、人の作る作物を覚えた野生動物は、それこそ人の目を忍んで作物を食い荒らすことになります。昔であれば、生ごみなどをコンポスターという場所に入れて、肥料として発酵させて利用していました。
 しかし、生ごみ処理機や生ごみとして回収していくのが当たり前になり、動物がお目にかかれることが皆無になりました。そのため、こう考えたかは知りませんが、“ごみをあさるくらいなら”と収穫前の作物を直接襲うようになったのです。
 何せ、野生動物です。“調理”は必要ありませんからね。時に人を襲うこともある熊であれば、その強靭な歯と胃袋で何でも消火してしまいます。まぁ、小骨が多すぎて大変そうですがw

 とまぁ。欲求と絡んだ本能は実に厄介で、多くの知識や繁栄を欲した人は、あるものを求め始めます。

原動力とハンドル

 本能が動力なら、理性はその本能を制御するハンドルとも言えます。“これはやっちゃダメ”というハンドルや手綱を握り、感情を制御できる人間は、ほかのどんな野生動物よりも優れています。
 大きな脳で多くのことを考え、してはダメなことを選定し、取捨選択ができる脳を持っています。それは、人だけが進化の過程で獲得できたもので、それはどんな野生動物も持ち得なかったものです。

 これが単純な野生動物であれば、群れを維持した虎の群れがぶつかり合った場合、どちらかの群れのボスが消滅するまで続いてしまいます。しかし人は相手を尊重したり、相手の必要とするものを交渉材料に用いたりと、理知的な行動を取ることができます。
 そうすることで、社会形態を維持し、地球上で最大の個体数を維持するようになりましたし、日々どんどんその個体は増えていっています。そして、ウィルスや病原菌によって、その個体数を多く減らしますが、いずれ回復します。

 ひとだけが本能を制御する手綱を得て、より理知的で賢く世渡りをできるようになり、社会形態を維持するようになったのは、人類の発展と深く関係していきます。
 今、私がこうしてブログを書いているのも、SS小説を発表できているのも、根本を追求すれば、本能と理性をうまく制御しコントロールできているからにほかなりません。
 では、どうしてこんな風にコントロールをするようになったのでしょうか。

パートナーを得るため、選定ため……

 これも生物の根本に刻まれています。それが……

“種の存続のため”

 ともう一つの理由にたどり着きます。
 この本能があるため、本来であれば本能を抑制するはずの理性を獲得し、時に本能を抑制し、時に本能のまま行動したりと、一見。支離滅裂な行動を成すのがひとです。
 それは、本能に裏打ちされた、より優秀な個体を、より優秀な子孫を残すために選定し、パートナーを選ぶことにつながります。生物としてはそれが根本となり、恋愛をして家庭を築き家庭という群れを構成することになります。
 それは人の発展とともに形を変え、次元すら越えて波及しています。そんな中で私の小説が役割を果たすことになります。なぜなら、ユーザーの好きなキャラクターの設定をもとに、ユーザーの求める行動を執筆するのですから、生きるための糧を小説から得ることもできるのです。

 ここまで、生きるための本能について執筆してきました。それは、人も動物も関係なく、まんべんなく備わっている能力のひとつです。それを制御し、時に抑制できるようにしたのが、人間の進化の結果です。
 しかし、その本能が抑制され続けたら、いつしか理性のタガも外れてしまいます。そして、社会生活を壊す犯罪となって報道されるようになってしまうのです。自分が認められたいから、と端的な報道がなされますが、その実。本能が抑圧され過ぎて、理性のブレーキが壊れてしまったにほかなりません。

 本来なら、理性で抑制し社会生活を維持していくのが普通です。まぁ。どれが普通なのかは、その人個人で別れてしまいますが、その多くの人が好戦的であるとは限りません。
 それは、育ってきた環境が好戦的にしてしまうということもありますし、おぎゃーと生まれていきなり好戦的なはずがありませんしw
 育ってきた環境によって、形作られた“あなた”という人は、より理知的になることも、より本能に準じた野性味の溢れる人にもなります。
 これが“多様性”という言葉を作り、地域によって人柄が異なるという状況を生んでいます。地域の人柄によっては、相いれない地域同士もありますが、多様性に裏打ちされた人は、地域がが変わってもこんなに変わるのに、国も変わればなおのこと変わります。

 社会主義に資本主義。いろいろな主義主張があり、多様性を生むキッカケとなっていますが。その根本にあるのも本能になります。その本能を理解し手綱を取るのも理性なのは変わりありません。

人間だけが、より強く。よりしっかりとした理性を持つ。

 ほかの野生動物にはない、この強固な理性は、社会生活を維持するために必要不可欠です。しかし、同じ社会形態を維持する虎やヒョウはそこまで強い理性を有していません。それは、どうしてなのでしょうか。
 それは、譲り合い共有することができるということです。前にも少し話しました。野生動物では、群れ同士がぶつかった場合、どちらかの群れが一方の群れのボスを倒し、吸収することで社会形態を維持します。

 しかし、これを人間がやらないのはそれなりの理由があります。それをしないのは、その地域でしか得られないものがあるからです。人種も異なり、その地域で得られる作物も異なり、流通する通貨や社会情勢も異なる。そんな人たちがより間接的にかかわりあうことで、相乗効果を生んでいます。
 その相乗効果によって、人類は発展してきています。まぁ、時に言い争いから戦争に発展し、相手の地域を手中に収めなければいけないと暴走し、戦争になったことも多くありますが、理知的に行動する限りよほどのことがない限り、戦争になることはありません。

 何しろ、直接命に関係なくとも、戦闘を伴わない貿易戦争や戦闘をする戦争など、“戦争”という言葉を使えば、多くのことが戦争に見舞われているようにも感じます。
 ということは、人の根本的な部分の本能が、戦争という形を成していることになります。利害の乖離から起こる戦闘ほど、疲弊するものもありません。そういう人たちは“聖戦”という言葉を使い、戦争に駆り出されますがその実、命の奪い合いにほかなりません。

 本能に裏打ちされた欲求を得るため、相手の領地を奪い奪われ、色々と厄介の事柄に発展していきます。本来、理知的に考え賢い人であるにもかかわらず、生まれてきた環境の違いで、多種多様な個性を生み、得てしてそれが社会情勢に振り回されることにもなります。
 仕方ないんだ、そうしないと。殺されてしまう!
 と命の危険がひっ迫しているところに生を受けてしまうと、より好戦的な性格にもなりますし、本能が強く育ちます。昨日の仲間は今日の敵なのですから。それが多様性を生み、生き死にを繰り返しているのだから辛いものです。

 それでも、強い理性を獲得することは、あとからでもできます。より多くのことを望み、叶えようと努力を続ければ、世代を越えながらよりよい生活が待っています。それが戦争を繰り返す基準になってしまうというのも、何とも言えない事実ですが……
 平和な地域に生まれ、何不自由なく育つ環境で書かれたこの記事ですが、思いを馳せ相手の気持ちになることができる、人は動物の頃から持っていた本能と、それを制御するための手綱を手にしてどこへと向かっていくのでしょうか。
 そして、その先には平和な日常が続いていることを願っています。