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結城里音のBLOG

PixivにてSSを執筆している作家のブログになります。

出会いとつながり。そして…喪失感 2020.08.29

 世界60億人いる中で、大切な人というのはごく一握り……

“いるのが当たり前。でも……”

 そんな話。

 

両親や祖父、祖母。

 両親や祖父に祖母。田舎暮らしであれば、のどかな田園風景に山間部。まぁ、山間部ではない場合もありますが、概ね両親やその親が孫や子を溺愛します。特に祖父や祖母になると、より孫を溺愛することになりますが。
 それは、単純に“孫”だからというわけではありません。孫と祖父や祖母の間には、息子や娘がいるからにほかなりません。何しろ、自分の大切に育てた子がひとつの家庭を築き、親として成長した証でもあります。

 そのため、一つの子育ての区切りになるため、人一倍孫がかわいく見えてしまいます。それが親を差し置いて孫がかわいいという現象を生み出します。それは子にはそんなにものを買い与えなかった人でも、コロッと孫のためならと買い与えてしまうのも、この現象があります。

 そんな孫も、いつしか親になり、子を成すという流れを経てその家系が作られていきます。それも、数十年や数百年といった長い単位で世代が変わっていくことになります。
 よく考えると、この書いた記事を子や孫が見るのか?と考えると、うーんとなってしまうものもあります。俗にいう黒歴史ですねw
 多くの書籍が刊行され、日々増え続ける中で、ちっぽけな記事はどこかのブログサーバーのひとつのデータでしかありませんし、埋もれる方が容易いのかもしれませんね。

 とまぁ。そんなブログに来てくれた方は、本当にうれしい限りです。もし、続けてみてもらっているのなら、なおのこと嬉しい限りです。

今は、核家族で家庭環境も変わってきている。

 とまぁ、話を戻して……
 今は、核家族化によって、祖父や祖母と一緒に暮らすことはなくなりつつあります。そのため、育児の形態も変わってきて、祖父や祖母と触れ合うことすらなくなりつつあります。
 触れ合ったとしても、お盆や正月といった、年中行事のいくつかの期間でしか会わない人も多くいます。仕事や学業のために実家を離れて暮らすことが多くなり、実家とは離れた場所で生活を形成していくことになります。

 それが、現在の一番ポピュラーな社会形態になってきています。ただ、それも、リモートワークによって変わりつつあります。なにせ、ネット環境があれば、どこででも勤務ができるのですから。
 そもそも、リモートワーク自体は、名前こそ違えど外注や在宅ワークとしてもともとあったもので、目新しいものではありませんが、自粛期間という変革に合わせて、新たに注目されたものです。

 次第に祖母や祖父たちと過ごす条件が揃いつつある時代ですが、その実。両親にいい抱いていない場合もあります。
 それは、就学のために家を離れたときまでの記憶しかない場合、より強く出ます。負の記憶しか印象に残らなくなり、ちょっぴり物悲しい状況にもなります。

いつも叱られて、小言ばかり…

 両親は失敗をしないようにと、生活していくうえで得てきたことを、きつく言い聞かせることもあります。こと思春期や反抗期はその傾向が強いです。ダメなことをあえてやってみたり、両親を困らせることばかりをやってしまう時期が到来します。
 まぁ、やりたくてやっている場合もありますが、その表現の仕方が今は過激になりすぎています。それがこの後に触れる内容でもありますが、一つのケンカが尾を引き、相手を殺める事態にまで発展してしまうことがあります。

 決して悪いことではありませんが、考え方次第でいろいろ刷り込まれてしまいます。それは……

 “死んだとしても、復活するんだろ”

 と、バトルロワイヤルなどのゲームであれば、それが普通です。よく昔の人は、あんまりそういうのをやらない方がいいといいます。その理由がこれで、死に対して無頓着になってしまうのです。
 決してダメというわけではないのですが、なにかタガが外れたタイミングで、この思考に移行した場合が最悪なのです。

 最初こそ、プロゲーマーになるために触れるかもしれません。昨今のE-gameもそれが起因となり有名になっている人も多々います。しかし、その全てがダメということではありませんが、心が成長していない段階から、競争社会に身を投じてしまうと、非常に厄介になります。
 なぜなら、本能優先になってしまいかねないのです。他者を蹴散らしトップになるため、見境がなくなってしまうのです。

 人の死に対して無頓着になってしまうことで、キレてしまった場合に殺すまでやめないという状況になります。

昔は、祖父や祖母の逝去で知る。

 少し前は、祖父や祖母の死を目の当たりにして、喪失感を味わって嫌で悲しいことなんだと、心に刻まれるのが普通でした。また、今でもあることですが飼っていた愛犬や猫が亡くなった場合に、死という現実に触れます。
 今は、ペット禁止などの住環境の変化によって、よくも悪くも死に触れることが少なくなっています。そのためその“死”に触れるのが、ゲーム内と両親の死でしか触れられなくなってしまいます。

 ガミガミと小言ばかり言う親も当然います。それは、よりよくなってほしいがために、多く小言を言うことがあります。しかし、それに反抗するためとはいえ、やりすぎは禁物です。
 相手の気持ちにならなければわからないことは実に多くあり、たくさんありすぎます。人の数だけ思いがあり、考えていることが異なります。そのため……

 “相手の気持ちになって考える”

 とは言いますが、一朝一夕にはいきません。まして、初対面だけならなおのことその相手の一部しか見えないので、深く相手を理解することはできません。どう考えてその行動に至ったのかは、長くはなしをしなければ相手の真意を探ることなんて、無理に等しいです。
 そんな中で、進学のために実家を離れた場合、競争社会になり人同士の会話すら少なくなります。それは、システムであり、あなたにとってはいなくても不自由がない状況です。

 よく、“環境がひとを作る”とはよく言いますが、競争社会で生まれた子供はどうしてもその環境に影響を受け、自分がのし上がるためなら、他者を蹴落としてでもという、考えに至ります。
 よく似たものが野生でもあります。それが、弱肉強食です。私自身、この言葉は嫌いな部類に入ります。自分がより良い収入を得るのなら、ほかの人を害しても仕方がないという一面です。

 それは、本能的な部分と密接に絡み、強く表に出ることもあります。しかし、昨今ではその傾向も少なくはなってきていますが、それでも根本的な部分は変わりません。のし上がるためには他者を蹴落としてもいいのですから。
 こう言うと飛躍しすぎているといわれるかもしれませんが、私からしたら相手がどうなってもいいという、殺伐とした考えしか見えてきません。それが相手が死ぬことになったとしても、仕方ないことなんだ。という未来が見えてきて仕方ありません。

 それは、実に悲しいことです。自分にはできずに相手にしかできないこと、相手にはできずに自分だけができること。それは、価値観に至るまで波及し、人を作っています。なら、蹴落としてまですること?という疑問すら浮かびます。
 ひとつの事柄に対しても、捉える人の価値観によって全く異なる答えを導き出します。それは多様性という未来を作り、経済を発展させることすら可能になります。

 その行動に移るまでに一度考えてみてもいいかもしれません。

 “その行動は、本当にとるべき行動? その行動で得られるものは?”

 この考えに至れるだけで、人は一歩先へ進めます。より深く、相手を尊重する視点を学校で学ぶはずですが、それはより良い成績を収めるためにすり替わり、点数という単純な“数字”に置き換わってしまいます。
 成績を知るうえで“点数”は非常に分かりやすい指針になりますが、得てしてそのことに固執してしまうことになりかねません。

 この成績がいいから、立派な大学に入った。という、一つの結果が物語るように、人の一生にすらかかわる事柄にも“点数”がかかわってしまっています。それがダメというわけではありませんが、人の生活が点数に置き換えられるのであれば、それは実に悲しいことです。
 ひとの価値がまるで売り物のように……ある指針にはなるのでしょうが、考えどころでもあります。

思春期には面倒に感じるけど、あなたが一番。

 とまぁ。ここまでいろいろとあげ来ましたが、その実。世の中には“数字”がありふれています。それは、その人の価値を決め、値段付けのようになってしまいます。その点数をつける先生は、よほど頭を使ってつける場合もありますが、多くの生徒を抱える講師は、実に大変で苦労を強いられていることになります。
 そんな点数を付けないにしろ、両親からすれば、手塩にかけた子がそんな点数を付けられれば、それはモンスターにもなります。でも、その根幹にあるのは……

 “他者を蹴散らしてでも、わが子が……”

 それは、愛情の押し売りになりかねない行為ですが、その点数の影には、良い面も悪い面も隠れてしまいます。そのため、表面の数字しか見えない場合。その陰に隠れたいい面が数字として表れないため、ややこしい状況に拍車をかけることになります。

 私は、数学の点数が壊滅的でしたが、それでも、数字を使わないときはありませんし、その専門分野に行く人はそれなりの成績を上げています。その後ろには、その人の興味が関係してきます。
 その事柄に対して、“楽しいから”という単純な感情に裏打ちされて、学ぶ活力になります。そして、他にも誇れる子へと成長します。

 親にとってはあなたしかいないので、学業に専念したり、得意分野で良い成績を収めると、鼻高々になります。わが子の成長を感じられるのですから。そのため、どうしても数字が目安となり、指針になりやすいのです。
 しかし程よくその数字を気にし、固執しないようにしないといけませんね。人は売り物ではありませんから。

 そんな人も、亡くなってから気づくようなことが無いようにしたいものです。